社長の日記「つみかさね」

社長の日記「つみかさね」

2014年10月28日

いつの頃からか

昔は自分のことを悪く言われるのがたまらなく嫌だった。

いや、若かりし頃の私は自分のことを悪く言われることを恐れていたような気がします。

いや、今現在も好き好んで悪く言われたいとは思いませんし、なんなら良いように思われたいですし、良いふうに言ってほしいという気持ちはある。

しかし、少々誹謗中傷されても何も感じなくなったというのが今の状態です。

なぜかはわかりませんし、特に何かきっかけがあったんではないと思います。

私のことをこういうふうにどこどこの誰々が言っている、というような話がちらほら耳に入ります。

それ自体も証拠があるもの無いもの様々ですし、その話の内容のほとんどが事実無根、どこからその話が!?と思いますが、いつも笑ってしまいます。

何も感じなくなりました。

あの、昔の気分の悪くなる感じはどこにいったのか。今はすごく不思議な感覚です。

会社の中で私のことを悪く言うのはそもそも筋が通らないことですから受け入れられませんが、外の人は自由です。

私の事を好きな人もいれば嫌いな人もいる。それが自然でありますし、嫌いだという人の意見を聞くことも大切です。

あんたが嫌いなら私も嫌い、では前には進めませんし、そこから得られるものもあるとすごく思うようになってきました。

そもそもなぜあった事もないような人や、私の本当に考えていることがわかっていないような人が否定や評論してくるんでしょうね。でも、それが人間というものなんでしょうか。

しかし、話題になっているうちが花ですし、私の話がでるということ自体がその人々に認められているということだと思います。関心がなかったら話題になりませんからね。


本当にいつからかなぜだかわかりませんが、腹も立たなくなりました。

楽になりました。

評価はされて当然ですから。

私のことは嫌いになってもオレンジナイトのことはずっと好きでいてくださいね!笑 と思っています。








posted by orangeknight at 20:29

2014年10月27日

自らの格好は心構えと心の持ちよう

会社に出社する時はきちんとした格好でくるのは当然である、と私は考えています。

どういう事かと言いますと、朝普通に出社しますが、その時に会社の入口を開けるときにきちんとした格好ができないということは公私混同、また自分に甘い、そして会社を神聖な場所であり、今日一日働かせていただけることに対する感謝の念が足らないということだと思います。

かくいう私は昔、会社に一番に出社するのだからネクタイを手に持って、制服の上着は前のファスナーをしめずに来ていたこともありました。

誰もみていないし、自分の会社であるからよいであろうという甘え、そして自分が「働きにきている」という奢りがあったのだと思います。

しかし、今は考えが変わり、人が見ていなくても神様とオレンジナイトという会社はみている、自分の会社だから何をしてもいいというのは通用しないし、自分は今は「働かせていただいている」と心から思っています。

仕事がないと、会社がないと、私たちはやっていけません。

従業員みんながいるから会社が形成されていますし、世の中に対し働かせていただいているという価値観を持って毎日仕事をさせてもらっています。

朝、家を出るときにきちんとした身なりをし、毎日が戦いでもありますから勝てる状態を作ってから赴くというのも当然でありますし、家を出た瞬間に「よしっ!」となるためには格好をきちんとできていることは最低条件だと考えます。

休みの日に少し出社するとき、これは私服でも全然オッケーだと思います。

ジャージでもジーパンでも。

とにかくきちんとしていれば。ジャージを完全にきちんと着ればいいですし、セーターを着こなせばよい。

ただ、会社とその日出社している人間に無礼な格好でなければ良いと私は思います。


何でもかんでも「だいたいで」「テキトウに」となっている風潮がありますが、パリッと、そしてピシッとした格好をしなければいけない時にできる人間にならないといけないと私は思います。

メリハリつけて、そして服装を礼儀の一つとして考える。人様とお会いするときも然りですね。

なぜ、これを今日考え直したかと言いますと、今日うちの顧問弁護士の先生と約束をしていて私から事務所に伺ったんです。

入口で先生とたまたま出会い、先生は「あっ、しばらくお待ち下さいね!」と言って背広の上着を着て再度打合せ室に来られました。

気心も知れていますし、今日は暑かったからカッターシャツでもよかったのにわざわざそうされていました。

私は「見習わないと」と感じましたし、服装や身なりというのは礼儀であり、大切であるとなと改めて考えさせていただけました。











posted by orangeknight at 16:30

2014年10月23日

クレームとはなんぞや

ここしばらく「クレーム」という言葉や「クレーム処理」という単語に違和感を感じます。

この半年くらい、なぜクレームを従業員が恐れるのかということを考えていくうちに感じてきたことなんです。

それを顕著に感じたことがありました。

私自身が外出するときも行き先や内容を告知しているんですが、つい先日あるお客様から「ちょっとワシの思っていた範囲と違う」と床の張替えの際に、押入れの中も張り替えるか張り替えないかという私との見解の相違がありお電話をいただきました。

厳密には押入れの中は張替え、その横の地袋の下のことなんですが、私はここは張り替えると言った覚えもないですし、必要性を感じない。

お客様は押入れの中と同様に魚住がここも張り替えると言ったと仰る。

もちろん私は最初に大工の親方に「こことここと」と伝えているから、お客様が「あれっ!」となられ、大工に「ここは?」と尋ねると「ここは聞いていないよ」となり「なにー!ワシはここも張替えだと思っていた!」大工は「僕は聞いてないんやけど勝手にするわけにはいかないんや」と言うと当然「ちょっと会社に電話する!」というのが今回の大まかな流れです。

私は電話をいただいた。

私「いえ、そこは施工しない予定です」

お客様「えー、ワシはしてくれるんやと思っとった!」

としばらくあり、もちろんこんな時は「では、今から伺いますね」とお会いして話をしないと失礼なので現場には行くようにしています。

会社には「どこどこの〇〇様邸の〇〇な内容のクレームにいってきます」と報告し出かけます。

そこですごく感じたんです。

こんなものクレームではないと。

ちょっとお客様は興奮されて怒ってはおられるが、元来気は少し短めですがさっぱりした気持ちのよい方。

そもそも私は育ちが浜手でバリバリの播州弁の育ちなので、少々きつく言われても普通に感じます。

伺うと「ここも張替えるん違うんか!ワシはここもしてほしかったんや!」と仰る。

大工の親方に「ここは棚をはずさないと施工できませんが施工は可能ですか?」と聞くと「やれ言われたらなんでもやるでハッハッハ」と言うので「ではご主人様、ここで言った言わないの話をしてもしょうがないですから喜んでさせていただきます!」と言うと「笑、やってくれたらワシはええんや!」と喜んでいただけた。

これはクレームではないでしょう。

そもそもそうかと。

なんでもかんでもクレームという浅い、チープな単語を使っているばっかりに我々の感覚が何か冷たいというか、ややこしいことのような錯覚に陥り、クレーム=大変なこと、となってきているんではないかと考えるに至りました。

今回のようないわゆるクレームは「普通の話し合い」ですし、自分も営業マンなので想像はつきますが、いただくいわゆるクレームは大半がこの程度の「普通の話し合い」であります。

これを後回しや曖昧にしてしまうから「普通の話し合い」で済む事がどうしてくれるんだとか、お前では話にならんになっているんだと思います。


広辞苑で「クレーム」を引くと「売買契約で、違約があった場合、売り手に損害賠償を請求すること。異議、苦情、文句」とあります。

クレームという言葉の進化は最近の世相が反映されているようにも感じます。

工事をしていて途中にお客様からご意見をいただかないことはほとんどありません。

また、いただかないといけませんし、お互いに話をして工事中、また完成時に満足のいく状態を提供するのが我々の仕事であります。

こちら側の自己満足であってはいけませんし、お客様側も何でも言ったもん勝ちというような感覚では良いものは作れません。

一部に本当のクレーマーは存在しますが、大半は、99%のお客様は良い、気持ちのあるお客様です。

そこからいただく意見を我々は「クレーム」というつまらない言葉でひとくくりにしてよいものでしょうか。

また、いただいた想いを「クレームを処理する」というような冷たい感覚でこなしてよいものでしょうか。

と、現在私は考えます。

「いわゆるクレーム」をもっと違った感覚で全員がとらえたらもっと本当に優しい集団になれるのではないかと思います。

本当のクレームと、クレームとは言い難い普通の話し合いをもっと探求していきたいと思います。


「いわゆるクレーム」にオレンジナイト独自の言葉を考えよっかな。



















posted by orangeknight at 09:47
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