小生は神戸新聞をずっと以前から購読しております。
地域の情報がよく分かり、また子供たちの学校の話や部活動等のスポーツの結果など、地元にはなくてはならない新聞であると感じております。
また、小さくではありますが商売をしておりますので、新聞に挟んでいただく折込み広告、これも販促には非常に有効であります。
弊社には大きなお金であります年間数千万円の広告宣伝費のうち、神戸新聞への折込みチラシには、折込み費用だけで数百万円を使っておりますが、おかげさまで御社の力は大きく、反響率は他紙に比べて格段に良く、その費用も十分に回収させていただく結果となっており感謝しております。
そのように、大変お世話になっております神戸新聞を作られている御社に対し、畏れながらひと言。
こちらは今日の貴紙の社説であります。

内容に関してですが、本当にいまだにこのようにお思いでありましょうか。
小生には考えても考えても理解ができないのです。
小生のイメージでは新聞社にお勤めの方はエリートであります。
高学歴であり、もちろん家柄も優れておられるのでしょう。
また、そのなかでも記事を取材される新聞記者様は、正義感に燃え、権力をペンで正すという、熱い想いを持って職責に励んでおられると考えております。
当然ながら、貴紙の記事は、そのような方々の取材に基づいてされていると想像に値します。
しかしながら、前兵庫県知事の斎藤氏の事となりますと、いささか取材の精度、と言いますか信ぴょう性を問うような文面が多く感じられますがいかがでしょうか。
また、小生が記者であれば、昨日の姫路駅前でのあの斎藤氏を取り囲む尋常ではない聴衆の数、またその高揚感は記事にしたく感じるのでありますが、そのような気配もありません。
甚だ不思議であり、ではそもそも新聞というものは、事実を正確に、会社の方針に基づきながらではありますが、公平に論じ、伝える存在ではないのでしょうか。
決して斎藤氏に肩入れをしていただきたいから進言しているのではありません。
ただ、ただただ高所から俯瞰し、またあらゆる角度から、毎日起こりうる出来事を正しく、我々市井の人間に伝える存在であってほしいと願うものであります。
私はデジタルでモノを読むより、紙を手に触れ、印刷の匂いを感じながら、文章に触れたいと希望する人間であります。
今日の社説、御社の若い方々も皆様同じようにお考えでありましょうか。
組織には巻かれないと生きていけないこともあります。
悲しいかな。
しかしながら、そのことで、人間として大切なものを失う生き方をしてはいけないと私は考えます。
ご飯を食べることはもちろん大切なことでありますが、人の心を満たすものは食事ではなく、人の役に、世の中のためになっているという充足感であります。
大人になるにつれ、ちょっと分かってくるものですが、お金は正しいことをし、他人に必要とされる存在になれば、自然と集まってくるものです。
こちらから求めているうちは寄ってこない。もちろん自戒も込めて。
生きていく上で一番大切なのは気持ちでしょう。
心。
私も、何歳になっても忘れないようにしようとそこに刻んでおります。
長くなりましたが、どうぞ、正しい報道を。
正しいってなんなんでしょうね。
それもこれからの人生で考えていきたいところであります。 敬具